高校生に再び国語を教えるようになって5年目ですが、
近ごろ改めて感じることがあります。
それは、
「○○してもいいですか?」と確認する生徒の多いこと
高校生ということは当然、義務教育は終えていて
おおかた建て前とはいえ、自らの意思で学びに来ているその人たちが、
何かにつけて
「○○してもいいですか?」
「これは○○で合ってますか?」
と確認してくる。
中には、
例えば「春と言われて連想する言葉を挙げましょう」
(実際の授業ではやってませんけど。例えば、です)
という課題に対して、
「さくら、とかですか?」
「入学式とかでもいいんですか?」
などと確認してくる。
私にしてみれば、いいも悪いもないので
「自分がそう思ったんなら、それを書くんだよ」
と答えると、場合によってはイライラして怒りだすこともある。
「えーもう、何書いたらいいんですか!」とか。たぶん本気で怒っている。
なんで私が怒られなあかんねん、と今までは微笑ましく見ていたが
最近、これは微笑ましいだけでもないような気がしてきた。
彼らは、怖いのだ。
間違えることが、ほんとうに怖いのだ。
「自由に書きましょう」
と大人が言うから自由に書いてみたら
「これはもっと、こうじゃないの?」
「これは普通、こうなるでしょ」
などと、散々難癖をつけられてきたんじゃないだろうか。
ごめん。ごめんよ。
これまで君たちを混乱させてきた大人に代わって、謝ります。
君たちの勇気を削ぐのは、いつも大人だ。
しかもよかれと思ってやっているものだから、タチが悪い。
大人は気づいているのだろうか。
小さく若い人達が
大人にこんなにも気を遣い、
顔色をうかがって機嫌を損ねないようにしてくれているということを。
そして私は、大人に対しても気掛かりになってきた。
高校生がたかだか15、6年分くらいの経験のなかで、こんなにも
「○○してもいいですか?」と許可を求めて大人と全体に合わせる体質になっている。
と、いうことは。
15年の2倍、3倍、4倍と生きてしまっている私たち大人は
彼らの2倍から4倍くらいは、
「○○してもいいですか?」と誰かに確認せずにはいられない体質なのだ
と思ったほうがいい。
そして、そうだとするならば。
「自分で決めた」「自分で選んだ」
と私たちが思っていた選択は、実は心の中で誰かに
「○○しても、いいですか?」と確認をして
「いいですよ、よくできました」
と許可されたものばかりなのかもしれない。
「○○してもいいですか?」じたいに罪はない。
尋ねてもいいし、尋ねなくたっていい。
いい、というか、いいも悪いもない。
いいか悪いか
合ってるか違ってるか
好かれるか嫌われるか
誉められるかディスられるか
見られるか無視されるか
いったい私たちはいつまで、誰の許可と承認を求めて
ある、ない
よい、わるい
と、色分けし続けるんだろう。
私はぼちぼち、飽きてきた。
「実はけっこう、飽きてます」という方、メッセージください(笑)。
そして発信する場面、とりわけ話す場面で、この
「○○してもいいですか」体質は邪魔になる。
誰かが何かを話していて、
「上手に話してるけど伝わってくるものがないな」
と感じるとき、その人は間違いなく
・表面的なコピーが上手い人
・長いものに巻かれるのが好きな人
のどちらかだ。だから言葉に「芯」がない。
言葉と声は、そんなことまで伝えてしまうのだ。
最後に、まとめ。
・「○○してもいいですか?」を悪者にしても意味がない
・この問いから離れて、それでも発信したいことがあるとするならば、
それは一体なんだろう?
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